木のまちづくりから未来のヒントを見つけるマガジン キノマチウェブ

2020.03.27
生徒が育てた木で、椅子や校舎をつくる。自分たちで社会を変えられることを学ぶ「自由学園」で70年続く、「木の学び」の真髄とは?

「キノマチ会議」は、グリーンズと竹中工務店がタッグを組み、全国から仲間を募りながら、木のまちをつくるための知恵を結集し「持続可能なまちを、木でつくる」ことを目指すキノマチプロジェクトのリアル・ミーティング。また、グリーンズに連載中の、木のリテラシーを広げる記事をキノマチウェブでもシェアします。

木のまちをつくろう。そんなビジョンを掲げて、株式会社竹中工務店とともにお送りしている連載「キノマチ会議」。日本全国に木のまちをつくるヒントを、先駆者にお話を伺いながら紐解いていきます。

今回訪れたのは、東京都東久留米市にキャンパスがある「自由学園」。生徒たちが植えた木を使ったという建物「自由学園みらいかん」で、高橋和也学園長にお話を聞きました。

高橋和也(たかはし・かずや)
自由学園男子部(中等科・高等科)を経て、同最高学部(大学部)卒業。その後教員の道へ。1986年に自由学園本務教員となる。男子部長、副学園長を経て、2016年より6代目学園長に就任。

山での勉強は、労働と研究と静思

自由学園は、1921年にジャーナリストであった羽仁吉一・もと子夫妻によって創立された学校です。社会を相手にするジャーナリズムから転身した二人の、家庭、そして教育の場から新しい社会をつくりたいという願いから、まずは女子のための学校としてはじまりました。

やがて小学校にあたる初等部、そして男子部、幼稚園にあたる幼児生活団、大学にあたる最高学部を創設。未就学児が集まる「ことりぐみ」や、45歳以上を対象とする「リビングアカデミー」もでき、生涯にわたる教育の場となっています。

自由学園での教育は、いわゆる詰め込み型の教育ではなく、自分自身が生活の中で主体的に学ぶ教育。「生活即教育」をモットーに、頭だけでなく体と心をフルに生かす学びの場が広がっています。(自由学園の教育について詳しくは、こちらの記事をぜひ)

そんな自由学園が木と向き合い始めたのは、戦前の1930年頃でした。男子部ができた1935年に、羽仁吉一はこんな言葉を残しています。

南澤(※)も男子部の将来を考えると狭くなってしまった。どこかの山の中に山小屋を建てて、一組ずつ交代で、1と月(ママ)生徒を送る。山での勉強は労働と研究と静思だ。

労働は主として植林をやる。専門家指導の下に科学的にやる。自分たちで労働するばかりでなく、林業の管理や経営もやらせる。それはやがて学園の自給自足を助ける有力な産業の一つともなろう。

場所によっては自家用水力発電所も作りたい。渓流があるなら、山女魚のようなものの養殖もよかろう。そこに自然科学や経済学の活きた勉強がある。

(※)学園のある場所を「南沢キャンパス」と呼んでいる。

そんな思いを実現するために、1941年に自由学園は栃木県那須塩原市の土地を購入。大きな石がゴロゴロ転がる厳しい土地を、生徒たちで開墾します。

しかし戦争に突入した時代であったため、食糧難に応えるべく那須は植林地ではなく畑として使われ、戦後は酪農を行う農場となり今に至ります。

現在の自由学園の那須農場。約100頭の乳牛たちがのんびり暮らしています。

植林が実現するのは、戦争が終わって社会が落ち着いてきた1950年のこと。埼玉県飯能市の名栗に26ヘクタールの土地を借り、先生と生徒とで小屋を建て、苗の植え付けがはじまりました。初年度、高等科3年生が2週間かけて植えたのは、スギ2万本、ヒノキ4万本でした。

植林がはじまった当時の生徒たちと先生。

羽仁吉一は、植林に向かう生徒たちにこんな言葉をかけたそうです。

君たちが48歳になった時、このスギの木を使って新しい校舎を造るのだ。心を込めて行ってきなさい。

その後、1954年から下草刈り、1964年から枝打ち、1967年から間伐と、それぞれの時期に合わせた手入れがなされ、健やかな森に育っています。名栗に続き、国内では1966年から三重県の紀北町、1982年からは栃木県大田原市と植林活動のフィールドを広げていきました。

高度成長期になると、日本に外国からの安い木材がどんどん入ってくるようになったことから、国内の林業は衰退。各地の植林地は荒廃が進んでいますが、自由学園が手がける山は地元でもきれいな状態が保たれていると評価されているそうです。

2017年に完成した建物「自由学園みらいかん」には、紀北町と名栗で生徒たちが50〜60年かけて育てた木が実際に使われています。

「みらいかん」の外観。2018年にグッドデザイン賞を受賞した。
「みらいかん」の1階。未就園児や初等部の生徒が利用しています。

高橋学園長は、自らが高等科の生徒だったときの体験を振り返りながら、こう語ります。

高橋さん 「みらいかん」を建てるときに、木工所の人から「すばらしくきれいな木ですよ」と言っていただけたのはうれしかったですね。

「1本ハシゴ」という、3mくらいの高さのハシゴに上って高いところにある枝を切る作業があるんです。私も生徒のときにやったんですけど、先生から「君たちがいい加減な仕事をするとひどい材になるぞ、心してやれ」なんて言われたものです。

正直、当時はそんなこと言われても「本当に材木になるのかな」とか「木材になるなんてどれだけ先のことなんだ」と思っていましたが…。でも、そんな厳しい作業が建物として成果を結んだというのは感激ですね。

自分たちが使う机と椅子をつくる

男子部では代々、入学してから自分たちが使う机と椅子を自分たちで製作。今ではその材木にも植林地の木が使われるようになっています。

自分たちでつくった机と椅子を並べる男子部の生徒たち。

生徒たちの手による森づくりは、男子部だけではなく、女子部でも2012年からはじまりました。

女子部ではそれまで80年前に揃えた机と椅子を、生徒たちが何度も修繕を繰り返し、傷みが激しくなったものを数十台ずつ新しく買い替えていくという形で使ってきました。そして、老朽化と機能の見直しのため、2012年から「女子部の木造校舎に合う机と椅子を考えてみよう」というプロジェクトが発足。

そこで、歴史ある家具屋さんを訪ね、新しい机、椅子づくりの検討を始めました。構造や手入れの仕方、そして材料となっている木について学ぶなかでわかったことは、利用する予定となっていた材がロシア産だということでした。

女子部の生徒たちはちょうどそのとき地理の授業で、ロシアの森で違法伐採が大変な問題になっていると学んでいたところでした。家具屋さんに「ロシアのどこの木ですか」と質問したところ、答えは得られなかったそうです。

材木から考え直すことになり、「やっぱり顔が見えるところの木じゃないと」と、広葉樹の森づくりに取り組む団体「ものづくりで森づくりネットワーク」に相談。そこで管理している広葉樹林から木材を提供してもらえることに。生徒たちは自ら森に入り、木材の搬出から製材、乾燥、加工までの過程を視察し、その材を机と椅子に使うことに決めました。

材木を運び出すのを手伝う女子部の生徒たち。

広葉樹の森を視察した生徒たちの反応はどのようなものだったのでしょうか。

高橋さん 木を切り出したあとの更地で、切り株を見てショックを受けた生徒もいました。「自分たちの机と椅子のために、森がこうなってしまうのか」と。

そこで森を戻すためにどんな木の苗を植えればよいかを調べ、植樹をしました。木を使うことで循環していく人工林の仕組みや、様々な樹種について体験を通して学ぶ機会となったようです。

自分たちで調べ、デザインした机と椅子は、ようやく形になってきたところ。女子部のこうした取り組みも、2019年のウッドデザイン賞を受賞しています。

広葉樹を使った女子部の新しい机と椅子。

自由学園の植林活動は、海外でも展開されています。1980年代後半に「社会に働きかける動きを海外でも展開したい」と考えた当時の学園長・羽仁翹氏は、ネパールで植林活動を開始。その活動は今も「ネパールワークキャンプ」として続けられ、最高学部(大学)の学生たちが毎年3週間ほど現地で作業を行っています。

植林地の運営は、現地の人たち自身が手入れをしていけるコミュニティ・フォレストというかたちで運営されており、木を活用した現地の人たちの経済的自立に向けた取り組みが進められています。

ネパールのワークキャンプで、現地の人たちと一緒に植林する最高学部生。

自分たちの社会は、自分たちで変えられることを学ぶ

自由学園が育てている木があるのは、地方や海外の山だけではありません。都心からわずか20分という東久留米キャンパスには、10万㎡もの広大な敷地に約4000本もの樹木があり、さながら森のよう。1930年代から学園の歴史とともに育ってきたさまざまな木々も、学びと実践の対象となっています。

生徒が作成した掲示板には、さまざまなドングリの解説が貼られていました。

自由学園の取り組みは街にも広がり、地域の人たちの声に応えるかたちで、生徒や学生たちが育てた木でつくったベンチを街中に設置するプロジェクトも進行中。また、東久留米市や飯能市と協定を結び、自治体とともに森を整備する活動にまで広がっています。自由学園の取り組みを、より市民に開き、多くの人の学びにつなげる動きです。

…と、実に長きに、多岐にわたって木についての取り組みを行ってきた自由学園。その教育的な意義について、学園長に詳しく聞きました。

学園長は、創立者が戦前に残したというこんな言葉を紹介されました。

われわれはよい社会を創造(つく)り得るという自信と希望を、その体験を通して被教育者に与えること。そのことのみが、変遷しつつある社会に、もっと有力なるものとして、かれらを生かしめ得る唯一の方法である。

この言葉を、学園長はこう紐解きます。

高橋さん 自由学園の教育は何のためにあるのかというと、「自分たちの社会は自分たちで変えられる」ということを体感させるためにあるんですね。

幼稚園生なら幼稚園生なりに、小学生なら小学生なりに体感させる。中学から高校になると、自分たちのことは自分たちでできるようにと学びを広げていくうちに、自分たちで変えていけるという実感を持ち、仲間もいるということがわかってくる。そして、わからないことを聞ける人がいるというネットワークもできてくる。

卒業して仕事に就くというときに、林業をする人は少ないと思います。でも、木が育ち、使われるプロセスを体感していることで、どんな仕事についたとしても、自分たちでつくり、変えていくという意識を持って臨めるようになるのではないでしょうか。

今、教育の現場でも「グローバル人材」という言葉が当たり前のように使われるようになっています。学園長はそんな風潮にも強い疑問を感じています。

高橋さん グローバルというのは、もとの意味は地球全体を見るということで悪いことではなかったと思います。でもそれが、グローバル人材ということになると、途端にグローバル経済での競争に勝てる人材というような意識になりがちです。

そもそも「人材」という発想に疑問を感じます。まるで交換可能な材料のように人を扱うのはどうなのでしょう。学校というのは、新しい社会をつくる人を育てるところであって、社会のニーズに合う人を送り出す人材工場ではないと思っています。

知識を詰め込むだけの学校ではなく、教師も生徒も自ら学ぶ学校でありたい。多様化する世界の中で、グローバル経済に勝つことよりも、仲間として世界の人たちと協力していけるような人を育てたい。そんなビジョンをもって教育を実践する自由学園として、木を大切に思っている。そんな熱意を感じます。

社会をつくる人を育てる、そんな教育の一環としての植林活動。その思いは生徒たちにどう伝わっているのでしょうか。

高橋さん 学園の生徒たちで育てた木が「みらいかん」という建物として形になったことは大きいですね。ビジョンが形になっているんですから。自然に触れながら体で感じることや、理解することもあると思います。

植林だけでなく、畑もそうですね。自分がまいた小さな種が大きな大根になる。そういうことを実感として知っていると、ただ消費するだけでなく、自分の手で生活を生み出すことの大切さがわかってくるのではないでしょうか。

女子部の食堂。敷地内には畑があり、育てた野菜や果物は昼食時に調理して食べています。

野菜と比べても、木は材として使えるようになるまでに長い長い時間を必要とします。植えることはもちろん、下草刈り、枝打ちといった作業には、結果が見えない遠い先のことにどれだけ心を込められるかといったことが、一人ひとりに問われます。

森に入る前と入った後の変化について、学園長は高等科の先生をしていたときの生徒たちの様子をこう振り返りました。

高橋さん 植林地には、春と秋の2回入ります。なにしろトイレもお風呂もないところで、水や薪の確保をしながら自炊もしつつ3、4日過ごすわけですから、春はみんな緊張感の中で出かけていって、やっと終わったという顔で帰ってきました。

でも2度目となった秋には、にぎやかにすっきりとした逞しい顔つきで帰ってきたことが印象的でした。つきものが落ちたというのでしょうか。自然の中で体を目一杯使って働き、夜は8時くらいに寝るという生活の中で、人間がもともと持っている心身ともに健康な状態にリセットされるのでしょうか。

現代は机に座ってコンピュータを触っているだけで実に多くのことができる時代になっていますが、便利になればなるほど、不便さを体験することが、人間が人間である上では必要なのかもしれませんね。

人間も自然の一部なのだと肌で学ぶということは、人間の原点に触れるということであり、そこに大きな教育的価値があると思います。

木材になるまでの背景も学ぶ

「みらいかん」で学園長の話を聞いたあと、「木の学び」の講師を務める遠藤智史先生の案内で、自由学園内の木工所に足を運びました。

木工所で木の加工について指導する遠藤智史先生。

自由学園の卒業生でもある遠藤先生が木に関心を持つきっかけとなったのが、中等科に入学して挑む机と椅子づくり。そこで木工に夢中で取り組むようになり、高等科2年になったときに植林活動のリーダーを務めました。そのときに先生から聞いたショッキングな一言が、その後の人生につながっていると言います。

遠藤さん 植林地に向かう車の中で、先生がこう言ったんです。「君たちが今から切り出す丸太は大根より安いんだよ」って。これは衝撃でしたね。じゃあ、山を全部切り崩して大根畑にしたほうがいいじゃないか、なんで学校はこんなことを続けているんだろう、そんな疑問が芽生えました。

同時に、自分が木工を好きだという気持ちと、木の価値のギャップの大きさを知って、さらに木に対する興味が大きくなっていきました。

卒業後、遠藤先生は岐阜県の「森林文化アカデミー」という学校で森林や木材利用について学び、「東京おもちゃ美術館」を運営する認定NPO法人芸術と遊び創造協会(旧日本グッド・トイ委員会)に就職。木育推進の事業に従事する中で、日本中の木の産地を回ったあと、現在は自由学園で「木の学び」、そして木工の指導をされています。

木工所にはさまざまな工具がそろっている。

そんな遠藤先生が自由学園で実践している「木の学び」とは、どのようなものなのでしょう。

遠藤さん 自由学園では「木の学び」として、ただ木を材料としてモノをつくるだけではなく、木材になるまでの背景を知ることを大切にしています。

たとえば先月、小学6年生に「日常にあふれている本物と偽物の木を探そう」という授業をしました。身の回りの木でできている物にマグネットを当ててみるんです。

一見すると木のテーブルなのに、マグネットがくっつくというようなことがあるんですね。それは鉄に木目調のビニールが貼られているからです。そういう発見を子どもたちと一緒にしていくという授業などをしています。

趣のある初等部の校舎。広大な敷地内には多くの校舎が点在し、なかには東京都選定歴史的建造物も。

自由学園では、中学生以上になると自分たちで計画をし、収支を立てるところまで行う「産業」という授業があるのですが、そこでも木が活用されています。

遠藤さん キャンパス内に植えられた樹木は、樹齢が80年くらいになります。その木を使って木工品をつくる活動を行っています。

産業の授業では他のグループが養豚や果樹など、食に関することを行っているので、何かつくるにしても、まな板とかチーズ皿のような食に関わるモノに絞りました。それを学園の行事で売って、生徒たちの活動資金にしています。

木工所ではちょうど、女子部の生徒たちが作業をしていました。つくっていたのは、現在リノベーション中の教室に置かれるピラミッド型の椅子。自分たちで教室そのもののデザインから取り組むプロジェクトの一環です。

木工所で作業をしていた女子部の生徒のみなさん。

学園から広がり、みんなで森づくりを

自由学園で植林構想がはじまった戦前、そして実際の活動が始まった戦後は、森づくりには教育的な意義に加え、産業としての意義がありました。しかし、貿易や経済をめぐる環境が変わった今、その活動が担うべき役割も変わってきています。

最後に、高橋学園長に、これからの方向について語ってもらいました。

高橋さん 植林を始めた時代は、使うことを前提にスギとヒノキを植えていたわけですが、これからは次世代につなぎ、生物の多様性も支える環境づくりとして、少しずつでも、もともとその山にあったような広葉樹林に戻していくようなことにもチャレンジしていきたいです。

そうした森づくりの活動に、自由学園ではない子どもや地域の人たちも参加できるようになるといいですね。

木というと、素材としての再生可能な特性や、環境面での役割が注目されがちです。なので、木と教育というと、環境教育の一環なのかと思っていました。ところが、とんでもない。高橋学園長の話からは、生活、そして社会をつくり出す原点を伝えるために森づくり、そして木の利用があるというスケールの大きな話を聞くことができました。

私たちより先に地球で生きてきた先輩として、人類よりずっと持続可能な生き方を続けている木。まだまだ私たちは、木から学べることがあるようです。

text:丸原 孝紀 photo:寺島由里佳

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